History フォルム70周年の年表

History フォルム70周年の年表

1950-1972 黎明

1950-1972

  • 黎明
  • 10坪から、目黒を経て3000坪の横浜へ。
    キャブオーバー型トラック部品の製造に着手し、
    1970年には、200名超のメーカーに成長。

1923
1923 創業者である問谷久夫が誕生 入社した東芝で検査課に配属

創業者である問谷久夫が誕生
入社した東芝で検査課に配属

関東大震災が起きた1923年、問谷久夫は大阪で誕生した。父は直七、母はふく。幼くして両親を亡くした久夫は、東京の親戚の家に預けられ、苦労して育った。
小学校では優秀な成績を修め、東芝の提案で川崎工業高校へ進学。卒業後は同社の検査課に配属された。
ある時、親代わりの親戚筋から、亀井製作所への入社の誘いを受ける。東京物理学校(現東京理科大学)への通学を条件に、転職を決意した。30名ほどの中小企業で、秤や航空機のメーターを開発する仕事に従事した。

 
 
 
 
1943
1943 招集され満州の歩兵学校へ 終戦後、南麻布で再起を誓う

招集され満州の歩兵学校へ
終戦後、南麻布で再起を誓う

戦線が激化し、久夫は招集。
成績優秀なため無線に従事したが、同期の仲間の多くはサイパンで命を落とした。
そして宮崎で終戦。東京に戻ると焼け野原で、亀井製作所には戻らず、蒲田の竹井製作所に勤め、女性用コンパクトやシガレットケースを開発した。
めっきして彫刻する。当時としては画期的な製品だった。同社で久夫は茂子と出会い結婚。
蘭の栽培をしていた妻の父親の提案により、空襲を受けた温室の骨組みを使って、南麻布(旧:港区本村町)の土地に新居を建築した。

1950
1950 南麻布の10坪の小屋で、問谷製作所が産声を上げる

南麻布の10坪の小屋で、
問谷製作所が産声を上げる

終戦から5年の混乱期。
久夫の妻の弟、滝野育三が参画し、工場として10坪ほどの小屋を建て、問谷製作所は事業を始めた。
社員は工場の2階に寝泊まりし、食事を妻茂子がまかなうという、家族経営であった。

 
 
 
 
1959
1959 キャブオーバー型は国内初 量産化後、大ヒットとなる

キャブオーバー型は国内初
量産化後、大ヒットとなる

従来のボンネット型ではなく、エンジンの上に運転席が載るタイプが登場。問谷製作所は非量産のときから部品製造に関わり、三菱重工からの信頼を獲得した。

1961
1961 騒音による近隣の苦情を受け 目黒区に本社工場を新設

騒音による近隣の苦情を受け
目黒区に本社工場を新設

アメリカむけ輸出金物雑貨を中心に、商社からの注文が殺到。金型とプレスの強みを発揮し、売上を拡大する。その後、競合の出現により、トラック部品の製造へと徐々に業容を転換していった。

 
 
 
 
1964
1964 受注拡大で横浜工場を新設 人材採用に力を注ぐ

受注拡大で横浜工場を新設
人材採用に力を注ぐ

事業の急拡大にともない、「金の卵」といわれた中卒ほか毎年40~50名の新卒を採用。生徒を迎えるため、社長自らが東北など地方の駅に出向くことも。社員寮をつくるなど福利厚生の向上に努めた。当時は中卒の子を夜学に積極的に通わせる会社と評判になった。

三菱重工自動車部の協力会社が集う「柏会」が発足

協力会社との連携・協力を目的とし、柏会が発足。水島、京都、名古屋、東京の4地域に分かれ、活動を開始した。問谷久夫は、年3回発行する会報誌の編集委員を担当し、また柏会東京支部長としても活動した。同会の活動は、2002年の解散までつづいた。

1965
1965 初めての労働組合が発足 周年記念式典を定期開催

初めての労働組合が発足
周年記念式典を定期開催

横浜工場設立の1年後、労働組合が発足した。会社の発展と社員・組合員の幸せを共通の目標として、それぞれの立場を認め合い、真摯な論議を交わしながら賃金・待遇・安全衛生などを軸に目標実現を目指した。労使共催の宿泊旅行、ビアパーティ、ボーリング大会、フットサル大会など社員同士の懇親にも力を入れ、今日までの社員同士のコミュニケーションを通じ労使関係の向上に努めた。以降、節目ごとに労働組合の周年記念式典が行われるようになる。

 
 
 
 
1970
1970頃 横浜工場の設立をきっかけに 社内イベントが盛んに

横浜工場の設立をきっかけに
社内イベントが盛んに

野球・バレーボール・ハイキングなどクラブ活動が盛んに。さらに、社内年末マラソン大会や、社員全員で各地をめぐる社内旅行。夏になると、金型工場の屋上駐車場でビアパーティを楽しんだ。

1973-1994 伸展

1973-1994

  • 伸展
  • トラック需要の増加、小型車部品の移管により、
    中厚物部品を中心にラインナップを拡充。
    順送化や溶接ロボット導入で、生産性を向上。

1973
1973 騒音・振動を最優先して決定 茨城工場の第1期工事が完了

騒音・振動を最優先して決定
茨城工場の第1期工事が完了

ぽつぽつと農家があり、舗装もなされていない松林に囲まれた場所。
隣は飛行場で、騒音・振動が気にならないことから、新設が決まった。生産性向上をめざし、1台ずつ機械を設置するのではなく、連続して製品の加工ができるよう、連続ピットを採用した。

 
 
 
 
1980
1980 社員の増加にともない福利厚生施設の充実を図る

社員の増加にともない
福利厚生施設の充実を図る

福利厚生施設が完成した後、食堂の営業を開始し、シャワー室を設置した。茨城工場の造成時につくった厚生棟は、大広間と食堂以外は4部屋ほどの小さな建物である。その後、地方出身の社員が増え、1985年に厚生棟1号棟、翌年に2号棟、1988年に3・4号棟、1989年に5号棟と次々に増築した。6畳の部屋に2人入居。それでも足りず、期間工のために近所のアパートを借りるほどだった。

1982
1982 茨城工場の第2期工事が完了 100名以上の体制へと拡大

茨城工場の第2期工事が完了
100名以上の体制へと拡大

横浜工場のキャパシティ不足を補うように、茨城に溶接工場を新設。昼夜勤の二直体制をとり、茨城だけで100名以上の規模へと拡大した。翌1983年には、大型H/Bドラムの加工が始まった。

 
 
 
 
1985

ユニークな福利厚生として、
社員のための分譲地を開発

茨城工場への移管が進み、横浜から異動する社員が増加したため、会社が土地を購入して造成し、社員に安く販売する制度をつくった。11戸分の分譲地から土地を購入し、家を建てた社員も多数。

1986
1986 水島からの移管を見すえた茨城工場の第3期工事が完了

水島からの移管を見すえた
茨城工場の第3期工事が完了

水島製作所の生産ラインをそのまま移管するため、第3工場を新設した。ハウジングの溶組ラインは70m、機械加工ラインが30m。直線にすると100mという、経験したことのない大きな設備。万全の受入体制を整えた。

 
 
 
 
1988
1988 小型トラックの重要保安部品、ハウジングの生産がスタート

小型トラックの重要保安部品、
ハウジングの生産がスタート

加工工程は複雑で、金型の種類も多い。それまで問谷製作所では、長い製造ラインで1つの部品を完成するという経験がなかった。また、移管元の関西と関東では、電気の周波数が異なるため、設備を更新すると弊害が発生することもあり、メンテナンスには非常に苦しんだ。

社員数は大きく増加し、
1988年には500名を突破!

売上高に比例して、社員数も右肩上がりに。茨城工場の操業時は250名ほどだったが、15年間で一気に500名と倍増。そのうち茨城工場の社員は8割を超えていた。

1990
1990 横浜の溶組設備移管にむけ 茨城工場の第4期工事が完了

横浜の溶組設備移管にむけ
茨城工場の第4期工事が完了

横浜にあった残りの溶組ラインを第4工場へ移管した。また、アルミ製エアタンクの受注により、新規の製造ラインの場所を確保する必要があった。十分な在庫を確保し、1週間ほどで茨城工場の生産ラインを立ち上げるという、過密スケジュールで移管を完了した。

創業者の名を社名からはずし
フォルム株式会社と商号変更

リブランディングを目的に、社名を変更する提案が挙がった。社員から公募し、経営陣が検討した結果、フォルム株式会社に決定。カタカナで読みやすい社名にしたのは、社員を募集・採用する際のイメージアップ戦略でもあった。

 
 
 
 
1991
1991 スチール製の移管につづき、アルミ製エアタンクを受注

スチール製の移管につづき、
アルミ製エアタンクを受注

1976年、三菱自動車工業のスチール製エアタンクの製造ラインが、問谷製作所に移管された。初めての部品のため、川崎工場を視察し、生産技術を獲得。付随する部品もふくめ、完成形のモジュールとして納入した。1987年には内面塗装のアイデアで、関西ペイントと共同で特許も取得した。この実績を評価され、1991年にはアルミ製エアタンクを受注。従来のスチール製に比べると重量は約1/4で、軽量化に寄与する部品である。問谷製作所は生産設備を中心に開発を支援。国内初のアルミエアタンク生産を行った。

1991
1991 大型トラックの新構造、スーパーフレームの部品を受注

大型トラックの新構造、
スーパーフレームの部品を受注

大型トラックの開発コード「H」ではキャブブリッジ、クロスメンバー、エアタンクを製造。その後、「M」へとモデルチェンジする際、追加で多数の部品の受注に成功した。1991年、大型新構造「スーパーフレーム」の登場後も、リベットの自動化を図るなど新技術でコスト低減を図り、受注をつづけている。

ついに売上高100億円を突破
その後も事業は堅調に推移

従来の部品に加え、ラインナップが充実。1991年には売上高は100億円を超え、その後の1995年には過去最高となる122億円を記録する。1990年代の後半までは、安定経営をつづけた。

 
 
1995-2020 挑戦

1995-2020

  • 挑戦
  • 二代目社長として、問谷正利が就任した。
    その矢先、売上高急減というピンチが訪れる。
    打開にむけ、全社一丸の挑戦がはじまった。

1995
1995 問谷正利が社長に就任 新たな役員体制でスタート

問谷正利が社長に就任
新たな役員体制でスタート

創業者である問谷久夫は、すべての代表権を譲り、会長に退くこととなる。問谷正利は2003年より、「自立」「自助」「自己責任」の基本理念をもとに、3つの経営方針「一社集中依存からの脱却」「下請体質からの脱却」「経常利益率5%確保」を打ち出した。

茨城工場で重大事故が発生
「命の日」を制定する

問谷正利が社長就任の前日、従業員が死亡するという重大災害が発生。この後、フォルムは9月1日を「命の日」と定めた。

 
 
 
 
1998
1998 2つの苦難が重なり、会社創立初の一時帰休

2つの苦難が重なり、
会社創立初の一時帰休

バブル崩壊の余波、三菱自動車工業のリコール問題による影響で、やむなく社員の一時帰休を実施。期間工の方には退職してもらい、週休3日や時短勤務などの施策、給与を20%カットするなど苦しい決断を経て、ようやく困難を脱した。その後、2008年のリーマンショックによる景気後退、さらに2011年の東日本大震災でも影響を受けた。ただ、これらは一過性の景気後退である。それに比べ、リコール問題は社会問題となり、フォルムなど部品メーカーに衝撃を与えた。

2001
2001 フォルム初の開発部門を設置 取引先の拡大に寄与

フォルム初の開発部門を設置
取引先の拡大に寄与

これまでのフォルムは、あくまで生産技術。ところが開発では、図面の設計、試作品を使った実験や性能試験まで手がける必要がある。例えば、衝突事故を想定し、リアバンパーがどれくらい変形するか。試作品をつくって実験し、国交省の条件を満たすかどうかを検討する業務までを手がけるようになった。

 
 
 
 
2002

三菱自動車工業の協力会
「柏会」が解散

親会社のダイムラークライスラーの方針で、購買方法が変わることに。フォルムのような部品メーカーに衝撃が走った。

2004
2004 茨城工場でISO14001、さらにISO9001を認証取得

茨城工場でISO14001、
さらにISO9001を認証取得

問谷正利の命を受け、社内にプロジェクト・チームが発足。管理の明確化、管理力の向上をめざし、規定づくりや帳票類の統一などに着手した。勉強会への出席、講師をお招きしてのセミナーなどの成果で、2004年に認証取得。横浜工場では翌2005年にISO14001を、2013年にISO9001を認証取得している。対外的に品質管理をPRできるようになり、その結果、三菱ふそうトラック・バス以外の受注増加に寄与した。

 
 
 
 
2008
2008 世界的部品メーカーより、オープンカーの屋根部品を受注

世界的部品メーカーより、
オープンカーの屋根部品を受注

フォルムにはめずらしい、乗用車の部品を製造した。カルマン社の経営放棄により、マグナ社が事業を譲受するというトラブルはあったものの、難易度の高い部品製造を手がけるという、貴重な経験ができた。

2010
2010 サンワにつづき、共栄製作所を子会社化

サンワにつづき、
共栄製作所を子会社化

2008年、自動車・建設機械の部品製造を行う、サンワの全株式を取得して子会社化。2017年にはフォルムの敷地内にオフィスを構えた。その後の2010年には、金型製造の共栄製作所を子会社とした。フォルムとのシナジーを発揮している。

 
 
 
 
2011
2011 ティア1のプレス工業より、いすゞ自動車の部品を受注

ティア1のプレス工業より、
いすゞ自動車の部品を受注

大型トラック「GIGA」ブランド、VC60の重要部品を受注した。この実績を評価され、プレス工業の協力会社が集う「弘和会」に入会。この部品は現在もマイナーチェンジで、継続受注している。

2014

茨城工場への集約化が実現
大幅に生産性が向上

これまでは茨城でプレス加工し、横浜に部品を搬送して溶組や塗装をして納入というプロセス。輸送コストもだが、業務が重複するというムダがあった。集約化によりコスト低減をふくむ、大きな成果を得た。

 
 
 
 
2016
2016 自然エネルギーの活用にむけ太陽光発電設備を設置

自然エネルギーの活用にむけ
太陽光発電設備を設置

2014年、茨城工場に完成した第一倉庫の屋根に、太陽光発電設備を導入。さらに2017年には、第5工場の屋根にも設置した。ほかにも、蛍光灯と水銀灯をすべてLEDに交換するなど、環境への配慮とエネルギーの削減に努めている。

2018

茨城小集団活動での
茨城県知事賞受賞

2018年のQCサークル茨城地区大会で、生産管理のクロちゃんサークルが茨城県知事賞を受賞。短期集中の成果、3つの要素をふまえた目標設定、細かな作業分析の実施などが高く評価された。

 
 

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